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地域の歴史

(1)村の暮らし、開田

   当地区の関わりのあった村々を含めると、当時の下野には約1400程の村や宿場があったと言います。
 村には名主、組頭、百姓代がおかれ、村役人、村方三役などと呼ばれました。
 名主は村内の旧家、大百姓がなり、領主の指示や命令を住民に伝え村をまとめました。
 組頭は名主を補佐する役、百姓代は名主や組頭に不正のないようにする役割でした。
 また、五人組に編成して年貢その他の諸役の実行や不始末に対する連帯責任を負わせ、相互扶助とともに相互監視による治安の維持も図りました。
 村には大百姓の屋敷やその周りに住んで、そのもとで働いている門百姓、自分の土地を持たない水呑百姓がいました。
 年貢は領主により様々でしたが、およそ村の収穫高の四割から六割が徴収され、基準となる石高は一反あたり1石とみられ、農民の困窮、勤労意欲の減退、農地の荒廃等で苦しい時代でした。
 その更生策に登用されたのが二宮尊徳翁で、真岡の桜町陣屋を拠点として各地において仕法を行い、農民に勤労と殖産を進め、人材を育て、用水を開きました。
 田畑の増加は直接年貢収入源の増加に繋がることから、幕府や諸藩は積極的に耕地の開発を奨励しました。当地域における代表的な新田の開発は、江戸時代末、藩政立直しの一環として岡本新田、桑島新田の開発が行われました。